2012年12月22日土曜日

紅葉杯 Motion解説

10月に関西で開催された紅葉杯でCo-CAを務めさせていただきました、渡辺聡史です。本大会のモーションに関して出題者からの視点としてモーション解説をする機会をいただきましたので、予選から3つ、こちらに掲載させていただきます。参加された1年生みなさんの今後のために少しでもお役立ち出来れば嬉しいです。


THBT gifted students should be taught separately from their peers.

欧米など導入されている、いわゆる「ギフテッド・アンド・タレンテッド教育(GATEやTAG)」に関してのモーションです。Gifted studentsは、英才児、優秀児、天才児と解釈されます。その定義は国や地域によって異なるものの、一般的に知能検査によるIQなどを反映し、上位数%の児童が該当すると言われていま集められて、普段の授業よりも複雑で困難な学習課題に取り組むことになっていたり、個人の興味に合わせたプロジェクトや学習内容が選べるような環境が整えられています。

このディベートで特に重要であること、そして出題者として1年生のみなさんに意識をしてもらいたかった事は、Gov、OppそれぞれのサイドでProblemやHarmを具体的にイラストするということです。それは子供の将来などの時系列的な意味でも、実際の教育現場という意味でも言えることだと思います。
大きな争点は、多様性をどこまで認めた上で教育が与えられるべきか、ということだと思います。それぞれのサイドでどのような議論が展開できるか考えてみましょう。

・Govとしては、gifted studentsにとって同輩と受ける、均一な教育が如何に不適切であるかを分析しなければなりません。生まれながらにして平均より顕著に高い能力をもつ彼らにとっては、学習内容が本人の能力や興味とかけはなれているため、課題に集中できなかったり、周囲の誤解や批判を得るような反社会的な行動をとることが考えられます。例えば、繰り返しや暗誦することに非常な抵抗感を示したり、グループ共同作業ができずにクラスを乱す行動をとる子供などです。従って学業成績に支障が出たり、集団から孤立することも考えられます。また、逆に周囲に同化しようとするあまり、意図的に能力以下の成績を修めようとするあまりストレスを抱えてしまう児童も想定できます。
 従って他の生徒とは別に教育を受けることで、その高い能力に応じた教育内容を提供するだけでなく、ギフテッドゆえに経験する様々な学習や生活における困難をできるだけ軽減することができると言えます。
 ・教育というのは、個々の生徒が持つ才能や可能性を伸ばすものでありニーズを満たさなければならない、そのように平均的な教育にマッチしない子供の多様性を尊重する必要があるなどと議論が展開できるでしょう。その例として、障害児に対しての特別支援教育などが挙げられます。他の生徒と同じように教育を受けることが難しい、もしくは特別なケアが必要な児童のための学校が用意され、特別な施設や先生の元で教育が受けられています。

Oppサイドに視点を移してみましょう。
Gifted studentsにとって何故、大多数の標準的な生徒を中心にした同輩の子供と同じ環境で教育を受けるべきなのか、それができなくなると彼らや学校そのものにどのような問題が生じるのを示しましょう。様々な視点で議論を展開できると思います。
・ギフテッド教育を受けた子供は「普通の」学校や子供時代を体験し損ねてしまうことです。「普通」というのは、勉強・スポーツ・芸術、いかなる基準で様々な特徴を持っている生徒と触れ合いながら生活する機会を持つことで、自分以外にも多種多様な人や価値観が存在するということを身をもって学ぶことです。ごく限られた人間にしか認められないギフテッド教育は、その貴重な経験を享受できる学校教育の機会を奪ってしまうことになります。そうして年を重ねたgifted studentsがどのような大人になってしまうかイラストレーションすることによってこのポイントは非常に有効なものになると思います。
・他の生徒に目を向けると、クラス分けによる差別感が生まれるという批判に加えて、友人関係に亀裂が入る、自尊心を傷つける、下位グループとみなされた生徒達は学習意欲が減退するといったことも指摘できるでしょう。ギフテッド教育は、ギフテッドの生徒が仲間はずれにされたり、いじめの元凶になってしまうという問題を生み出してしまいます。
・教育の現場で不必要なトリアージが行われることも挙げられます。ギフテッド教育に充てる特殊なカリキュラムは学校や教育そのものが持つ人材や財源を吸い取ってしまい、他の生徒に渡るべき人的資源や経済的資源が減ってしまいます。障害児への特別支援とは、その必要性が全く異なるため、優先順位がさほど高くない、また勉学の面では学校以外の場面でギフテッドの生徒にも適切な負荷を伴うチャレンジをさせることができるなどと考えられます。

THBT all the judges and juries should be the same sex of victims in the trial of sexual crimes.

ここで意識してほしかったのは、チームとして守りたいstakeholderはどんな人なのか、チームとして守りたい価値は何なのか、なぜ守られなければならないのかを明確化してほしいということです。平等の重要性について議論する場合、何をもって平等なのか分析しなければなりません。

・Govは一貫して「性犯罪における被害者を裁判において守らなければならない」というシンプルなスタンスを敷くことができると思います。「なぜ性犯罪での裁判なのか」、「何故裁判官・裁判員が同性でなければならないのか」という理由付けをしっかりしていきましょう。
・そのために、性犯罪での裁判における被害者へのインパクトの大きさを説明しなければなりません。裁判に出て、自分が被害を受けたことを証言することは「セカンドレイプ」と言われることがあります。ただでさえトラウマになってしまうような忘れたい記憶を大勢の人の前で呼び起こされ、晒されてしまうからです。例えば、レイプにあった女性がいつ、どこで、どのように襲われたのかを詳細に思い出さなければなりません。場合によっては、実際に模型などを使って当時の状況の鮮明に再現をする場合もあります。重大なことは、裁判官が男性の時は、それを彼らに向かって行うということです。男性という存在自体に恐怖を覚えるような事件を体験した後、被害者の女性がどのような心理状態でしょうか。そういった理由から性犯罪を受けた約70%もの被害者は裁判にでることなく泣き寝入りをしてしまう現状があります。そのように行われる裁判が如何に被害者にとって公平でないか強調していきましょう。
 ・加えてAPについて、被害者にとって裁判がどのように変化するのかを説明していきましょう。その時に被害者と同性の裁判員が同情を抱きやすくなるという分析が両サイドともでると思いますが、Govはそれを肯定しなければなりません。例として、裁判員制度の導入目的というのはそもそも、法律家だけでなく一般市民に裁量を与えることで、市民の刑量感覚をより反映したいという意図があります。それと同じように、その同情というものは一般的な感覚を取り入れることに繋がり、むしろよいことだと言えると思います。

・Oppについては、裁判官・裁判員が全員、被害者と同性になってしまうことによって裁判の平等性がくずれてしまうという議論が展開できると思います。被告だけが男性、原告と裁判官、裁判員がすべて女という構図でどのようなことが起こるかということを明らかにする必要があります。
・まず大前提として「疑わしきは罰せず」という謳い文句のように、判決が出されるまで被告も原告同様に守られるべき存在であることを指摘しましょう。GovのAPのシナリオでも出てくる同性という存在であることから生まれる無意識な同情が、被告に明らかに不公平な判決や不必要な罰則が与えられてしまう。何をもって不公平、不必要とするかの説明は難しいですが、裁判での判決というのは過去の事例や科学的な根拠など客観的な判断基準に重きが置かれるものであり、感情的な要素を持ち込む事自体が危険であると言えるのではないでしょうか。
・更に、裁判員に選ばれた一般市民に心理的なプレッシャーを与えてしまうことに触れられれば有効だと思います。女性であるから女性が被害者の性犯罪の裁判員に選ばれたという事実は「原告を守らねばならない」というメッセージを帯びてしまいます。更に、法律のプロでない陪審員にとって裁判はまさしく非日常そのものであり、そのような場面で人は「かわいそうだ」などという感情に無意識に流されてしまうというメカニズムを深めることもできます。

THW drive out food companies once they deceive consumers.

予選のモーションの中で難しかったという声が最も挙がったモーションだったと思います。特にGovサイドにとってはハードなスタンスを取らなければならず、苦労した1年生も多かったのでないでしょうか。
モーションムービーにも銘菓「赤福」の食品偽装の件が出ていましたが、個人的に赤福は大好きなので非常にやりづらいと思います。冗談はさておき、ここでよく考えて欲しかったことはモーションのキーワードを大事にするということです。なぜ「food company」なのか、なぜ「once」、なぜ「drive out」でなければならないのか必ず触れなければならないと思います。

それぞれのサイドで議論を見てみましょう。
 Govですが、「食品偽装は絶対にあってはならない、したがって多少厳しいとしても追放は必要である」という開き直りのようなスタンスをとることになると思います。そのために、まずなぜ政府が食品偽装をする会社にこのようなハードなスタンスをとらなければならないのかという部分です。
・まず食品会社の特徴を捉えましょう。人々が毎日口にする商品を供給する責任というのはどのようなものでしょうか。また、食品以外の産業と比較して、企業と消費者の間で情報の対称性が保証されにくいといえるでしょう。
・そして賞味期限、生産地、原料の偽装などでは、食中毒などで健康被害がでることがない限り、直接的な被害にスポットライトがあたることが少なく判明しづらいと言えます。従って現状では内部告発による摘発に頼ることが多いですが、そもそもモラルに依存する内部告発に頼ること自体がスタンスとして弱いことに加え、内部告発者を保護するような法の整備が進んでいないのも現状です。
・資金繰りなどが行き詰まり、生き残りのために手を染めた食品偽装ですが、一度見つかってしまい、罰則を受けてしまっても時間の経過とともにほとぼりが冷めると、また偽装を行なってしまい連鎖を断ち切ることができないことも挙げられます。一度でも摘発されれば二度と戻ってくることはできないというAPでは非常に強い抑止を持つことになります。

Oppはいくつかの話で議論を展開できます。
・まず、「責任論として全ての従業員に影響を与えるプランはやりすぎではないか」ということです。そのために食品偽装がどのようなメカニズムで発生しているのかを説明する必要があります。よくあるケースとして、食品の管理などの決定権を持つ上司が出す命令に末端の従業員は従わざるを得なかったというものがあります。大多数が偽装の事実自体さえ知り得なかったこともあります。そのような背景で、すべての従業員や彼らの家族の人生に多大なインパクトをもたらすほど、責任を問うてもよいのかということが言えます。食品会社という集団において責任を持つべきなのは、誰なのか分析しましょう。

・そしてもう一つ、政府が徹底的に防止に努めるためにハードなスタンスが必要と言うGovに対して、「食品会社が市場に復帰するかどうか決めるのは、政府が一方的に決めるのではなく、消費者や市場原理に委ねるべき」とSQを肯定することです。消費者の信頼を裏切った時の影響が自分たちでわかっている以上、そもそも食品偽装は行わない。仮に行なったとしてもその時重要なのは適切な罰則を与え、反省・更生の機会を与えることであると主張できます。たとえば、先ほども出てきました赤福や、他にも雪印など過去に食品偽装があったものの、現在では復活しています。それは、SQの罰則での償いと更生の結果、消費者にもう一度受け入れられる企業像を取り戻すことができるからだという事ができます。




以上が解説となります。
上記以外にも様々な視点があると思いますのであくまでアイデアの一つとして役立てて頂ければ幸いです。

渡辺聡史
大阪府立大学工学部航空宇宙工学科
2012年度JPDU関西代表, 2011年度OPU Parliamentary Debate Chief,
紅葉杯2012 Co-Chief  Adjudicator,  JPDU Autumn Tournament 2012 Quarter Finalist